音楽が終わった後で。。。。。6 〜邦楽との付き合い方〜

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音声・音楽
高校に入ってからはバイト代なども入り、コンサートに足を運ぶにも小遣いで行けるようになった。
初めて自腹で行ったコンサートは桑名正博さんだった。セクシャルバイオレットNo.1が大ヒットとなり、スコーピオンを出した頃だった。今は無くなった大宮商工会館大ホールだった。
桑名さんはセクシャルバイオレットの前の哀愁トゥナイトやサード・レディが大好きで会場でも大興奮で観た記憶がある。ただビックリしたのは、コンサートの1曲目が終わった時には会場の後ろ半分から人がいなくなったこと。つまりステージにみんな殺到したのだった。その光景に圧倒されたことがあった。

洋楽一辺倒だった中学時代があり、高校受験もあったので一旦音楽から離れたこともあって、ラジオから流れる曲に耳を傾ける程度だった。それでもラジオCMで流れた鈴木茂さんのレイニーステーションや前にも書いたラジオ番組で聴いていた関西のロックなどを聴いていた。この頃はニューミュージックというカテゴリーが作り出されており、やはりラジオ番組のコッキーポップの大石吾郎さんのDJでヤマハのポプコン出場者の曲などを聴いていた。

高校からは洋楽のブラコン、AORなども聴くようになっていたが、それでも日本のロックというのを聴き出していた。はっぴいえんどやムーンライダース、頭脳警察なども聴き始めていた。

そんな中で「ある衝撃」があった。当時のアイドルだった石野真子さんのアルバムを買いに銀座の山野楽器に行ったのだが売り切れだった。当時の山野楽器の中にプレイガイドというチケット販売店があり、そこのポスターに「吉田拓郎武道館公演チケット残りわずか」と出ていた。石野さんのデビュー曲を拓郎さんが書いていたこともあり、何となく勢いでチケットを買ってしまった。
当時、コンサートは「一人で行く」というコンセプトを貫いていたので、一人だけで武道館へ行った。

会場の雰囲気はこれまでのコンサートとは全く異なり、若い女性は皆無。サラリーマンが主流の男だらけの会場だった。コンサートが始まり「黄色い声」の声援はなく、「ウォー」という野太い声がこだましていた。

あっという間の2時間だったが、何とも厄介なコンサートを観てしまったというのが本音だった。言葉を選ばず言えば「集団催眠」にもかかったような時間だった。ネクタイを鉢巻きにして踊り狂うサラリーマンやほぼ上半身裸になって踊り狂っている様はやはり異様だった。拓郎さんのMCで「昔はフォーク界のプリンスと呼ばれて女ばっかりだったのが、それがいつの間にか男ばかりになって、俺の女はどこへ行った!」と自嘲気味に言われていたが、本当に凄いライブだった。この後「伝説の篠島」のオールナイトライブに繋がるのだが、このライブの凄さは本当にヤバかった。丁度「ローリング30」というアルバムを出した頃でもあった。鈴木茂さんのギターを見れたのも感動だった。

それから日本のロック、フォークのアルバムを遡って聴くこととなる。小室仁さん、泉谷しげるさん、友川かずきさん、岡林信康さん、松山千春さん、中島みゆきさん、森田童子さん、当時「シングルマン」というアルバムが廃盤となっており、再発運動が起きていたRCサクセッション(吉見佑子さんが音頭とっていたと記憶してますが。。。)などを聴きまくっていた。憂歌団やウエストロード・ブルースバンド、サウス・トゥ・サウス、ブレイク・ダウン、スターキング・デリシャスなどの大阪のバンドをきちんと聴き始めたのもこの頃だった。

歌詞の内容をかなり背伸びして聴いていたが、それでも「裏」の意味まで分からずに聴いていたんだなあと思う。まだ音楽が力を持って時代を変えていける存在だった気がしてならない。コンサートも今みたいな規制ばかりではなく、演者も客も自由に楽しめる時代だったんじゃないかと思う。商業ベース云々は別として「何か伝える」という意識が強かったようにも感じていた。ラジオやテレビも聴く側、観る側に迎合することが少なかったように感じていた。そのスタンスに憧れていた気がするのです。それは洋楽も同じで発信する音楽から「売れる音楽」(渋谷陽一さん曰くの産業ロック)への転換期だったのかもしれないと思う。かのマスターがイーグルスのホテルカリフォルニアを聴いて、「ロックが終わるのかもしれない」というのはひょっとしたら、この感情だったのかもしれないと今思い返している。

高校から専門学校まで'80年代の混沌とした音楽で右往左往することとなるのであった。

お後がよろしいようで。。。。
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