「日韓中三国比較文化論➀」

記事
学び
1、「大人」中国の度量と面子~「華僑ネットワーク」の持つ可能性➀

「中国文化」~「塩味」、ザーサイ、「錦上添花」(スイカに砂糖をかける)、椅子。感情を剥き出しにする強い個性を表現し、自己を抑制しない気質。絶対的イデオロギーが支配する「イデオロギー社会」(儒教、血縁主義、社会主義)。石の文化。偶数文化。大陸文化。中華思想。「教える」文化。「ユダヤ人ネットワーク」に匹敵する「華僑ネットワーク」。

「三国の文語に関するわたしの個人的な感じとしては、中国語がもっとも華麗で洒落ている。それは中国語が何よりも文語的体質を備えているからであり、豊富な四字熟語と互いに前後が呼応しあう対句が特異な機能を働かせるからである。
相対的に会話体機能が強い日本語・韓国語は、華麗な中国語に比べて繊細ではあるが、どこか貧弱で、さほど素晴らしいとは思えない。幸いにも数多くの漢字語と近代的な外来語・ローマ字単語などが併用され洗練された感じはする。」
(金文学『日本人・中国人・韓国人―新東洋三国比較文化論』)

「それならば中国女性はいかなる美人だろうか?中国美人は顔や胸よりも脚の管理に何よりも神経を使うのが特徴である。いにしえから中国人は畳やオンドルではなく、椅子や寝台で主に生活してきたために、東洋三国の女性のうちでは脚がもっとも長くすらっとしており、これが中国美人を創造するのに一役買っているのだ。」
(金文学『日本人・中国人・韓国人―新東洋三国比較文化論』)

「疾風怒濤の季節もとうに過ぎ去った七一年の夏の終りか秋の初め、ふと思いついて、本棚の隅から『世説新語』なる書物を取り出し、埃を払って読み始めた。これがなんとも面白く、私はたちまち夢中になった。久しぶりに味わう快感であった。
 『世説新語』は五世紀中頃、南朝劉宋の時代に編纂された魏晋の貴族のエピソード集である。ここには乱世のただなかに生きながら、老荘思想の「無為自然」の理念をモットーとして、独特のライフスタイルを誇示し、机上の空論たる清談に寝食を忘れて熱中する人々の姿が、多角な角度から活写されている。奇人・変人続出の『世説新語』のエピソード群は無類に面白く、かてて加えて、ちょっとした会話にもひねりをきかさずにはおかない、彼らのレトリック狂いは、*1『文心雕龍(ぶんしんちょうりゅう)』を通じて、嫌というほど中国式レトリックの何たるかを叩き込まれた私にとって、共感するところ大、すこぶる身近なものに思われた。
 この六朝貴族版「敗れざる者たち」の群像をいきいきと描く、『世説新語』を繰り返し読むうち、私は勉強は楽しんでやるものだと、改めて痛感した。なるほど、『文心雕龍』も*2曹植もすこぶる面白く読んだけれども、論文を書くときには、どこか義務感がつきまとい、だんだん興ざめしてしまった。論文を書くときの定番のセオリーから解放され、面白いものを発見した喜びがそのまま伝わるような、そんな文章を書いてみたい。そう思いながらそのころあった中国文学の同人誌に、「『世説新語』の人々」と題する小さな文章を書いた。書き終えたあと、実にのびのびと楽しい気分になった。疾風怒濤の季節をそれなりに懸命に生きるうち、私の意識のなかで、中国文学の論文はかくあらねばならぬという重石が、すっぽりはずれたものと見える。中国文学はなんでもありで面白い。自由自在に面白くやれそうだと、『世説新語』をためつすがめつしながら、初めて実感したのであった。」
(井波律子『学問はおもしろい』所収「叩けよ、さらば開かれん」)
*1『文心雕龍』…魏晋南北朝の南朝梁の時代に、劉勰(りゅうきょう)(四六五?~五一八)という人物によって著された、文学理論の大著。筆者はこの書を卒論のテーマにした。
*2曹植…『三国志』の英雄曹操の息子で、杜甫以前の中国最大の詩人と目される。筆者は曹植を修士論文のテーマとし、以後、『三国志』に長く取り組むこととなる。

「私は十九歳にもなってから中国語を始めたのに、中国の人から「なんて上手なのか」と大げさにほめてもらうことがよくあり、有頂天になりつつ、いったいなぜかと冷静に考えてみたところ、どうやら二つの理由があるようなのだ。
 第一に、中国語が包容力のある言葉だということ。
 そもそもの成り立ちからして、各地方出身者の意思疎通という目的をはっきり持っているので、中国人の耳は、減点方式ではなく、加点方式で相手の言葉を聞く。つまり、「あっ、間違った」「また訛ってる」と、欠点をあげつらうような、意地悪な聞き方をしない。反対に、「たぶんこうだ」「きっとそういう意味だろう」と、聞き手が積極的にコミュニケーションに関与してくるのだ。
 これは日本語と大きく違う。私はいつだって、この話になると、大正時代の関東大震災で起きた事件を思い起こす。朝鮮人らしき人をつかまえては、濁音の入った言葉を喋るように強要し、発音が日本風でなければ、いきなり井戸に投げ込んだという集団ヒステリーのエピソードだ。どうしてそんな恐ろしい事件が起きたのか。理由はいろいろあるだろうが、日本語の排他性がいかんなく発揮されたケースであることは間違いない。
 日本語は基本的にムラの言葉、身内とよそ者を判別するために機能する内輪の言葉としての性格が、今にいたるまで非常につよい。メンバーズオンリーのシークレットコードといおうか。
 だから、何十年も日本語を勉強して、日本に暮らし、日本の大学で教えている華人の先生であっても、外国生まれであるというだけで、「一度として日本人と間違えられたことがない」と嘆くことになる。かつて早稲田の法学部でスペイン語を教えていらしたある先生は、「日本人とまったく同じように話していても、中学生くらいの子どもから言葉遣いを直されたりする」とたいへん立腹されていた。いずれも、ほんのわずかの違いをあばきたてずにはおかない日本語という言語の性質による。
 言語の性質といっても、おそらくは言語心理学の領域に属するテーマだろう。というのも、日本人である私の耳には、やはり華人の先生の話す日本語が日本人とまったく同じようには聞こえないという点が一つ。
 もう一つは、私が中国語を話していると、「ずいぶん日本語が上手なんですね」とほめてくる日本人が珍しくないのである。「中国語が」ではなく「日本語が」。自慢するわけじゃないが、親の代から東京生まれの東京育ち、標準語が訛っているとしたら東京訛りの私である。それなのに、在広州日本国総領事館の職員も原宿の日本料理屋のウエイターも、口を揃えて「日本語が上手ですね」ときたもんだ。それはつまり「中国人にしては」という意味だろう。どうして当たり前に日本語を話している日本人をつかまえて中国人と間違えるのか。中国語を話したくらいで。しかも総領事館ではパスポートまでかざしていたというのに。
 つまりこれが、言語を巡る日本人の排他性ということなのだ。外国語を話しているだけで、自動的によそ者として認識されてしまうのである。
 それにひきかえ、ほんの数年、中国語を学んだだけの外国人が、どれほどしばしば「なんて上手なのか」と持ち上げられ、「中国人と同じじゃないか」と仲間扱いされることだろう。そこには中国人の寛容さということもたしかにあるが、一番重要なのは、中国語自体が非常に包容力のある言葉だという点であろう。」
(新井一二三『中国語はおもしろい』)

サービス数40万件のスキルマーケット、あなたにぴったりのサービスを探す