傾聴力について。“相手の気持ちを受け止める”とは?

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最近、“傾聴”というものの深さについて、より深く考えさせられています。

この間、パートナーに話を聞いてもらった時も、“聞く”という行為は、極めれば、大袈裟でなく、人を救う力があるな、と感じました。

自分が日頃感じている漠然とした激しい疲れは何なのか?、とここ最近ずっと分析していたんですが、これなのかも、という結論に辿り着きまして。

結果が出ているし、自分はこの方向が良いと確信している。この疲れは成長に伴う痛みだと実感している。だから辛くても歩みを止めたくない。

でも、自分の選択に迷いもある。このモヤモヤを、脳内からとにかく出して、何というか、形にしたい……という気持ちで、彼に話すことにしました。

うつ病から寛解してから約10年、これまでの自分の未熟さを思い知って、これではいかん、これまで取りこぼしてきたことを回収せねばと思い、ありとあらゆる考え方や習慣を変えてきました。

そうしたら、たくさんの点が一度にブワーッと線になったような感覚があって、人が変わったようになりました。

人生が劇的に良くなったので、それはすごく嬉しいし、満足し感謝もしているものの、一度にたくさんあれもこれも、と頑張り過ぎているから、すごく疲れてしまうんだと思う、とオチもなく、人によっては「で?」と、言われるような話をしてしまったんですが。

彼は、なるほどなぁー、と一息ついて納得した様子で、「そんなにたくさんやってたら、そりゃあ疲れるよねぇ」と一言言いました。

この時点でも、私の話をきちんと自分の中に入れてくれたことが嬉しく、満足だったんですが。

その次に、「疲れるけどさ、でもさ、世の中には、ホントーに全く何も頑張らない!努力しない!って人もいてさ。それはそれでどうなのよ!と思うんだよねぇ笑」と、彼も、これという答えや、こうすべきだよね!というオチもなく、話が終了したのでした。

そんなきちんとした答えもない、指示もない会話で私が感じたことは、自分の気持ちが“成仏”したという実感と、スッキリしたという快感、被受容感からくる何とも言えない幸福感でした。

〝相手の気持ちを成仏させる大切さ”については、以前も書いたのですが、
この時に、受け止めてもらう、とはこういうことなんだな、と改めて思いました。

殆どのことに正解なんてなくて、その正解のなさを分かったうえで、相手が自分なりの正解を見つけようと努力したこと、でもやっぱり正解はないから、下した判断への迷いとか、周りの人との意見の違いからくるやるせなさなんかを、丸ごと受け止める。

やってしまいがちなのが、

①こんな方法もあったのに、と自分の考えを押し付ける。

②そんなの皆適当にやってるよ、と一般論で返す。

③気にし過ぎだよ、とその努力を軽んじる。

④これはこう考えるといいんだよ。今後はね……と、変に誘導したり指導する

それが例え相手を思ってのことであっても、相手が求めているものでなかった場合、相手には、何とも言えないちぐはぐ感とガッカリ感が残ります。

もしかしたら、後々それが正解だとハッとすることもあるかもしれませんが、人それぞれに学ぶタイミング、段階があって、誤った場面でその知識に出会ったところで、耳に入らなかったり、悪くすると、相手の心の扉が閉じたりするなと。

相手の気持ちを受け止めることよりも、自分の正しさや自身の価値を認めさせたいという気持ちが勝っていると、期待していた反応がなかった場合、せっかくこちらが心を砕いてやったのに!と、親切の押し売りをした挙句に独り相撲、という結果にもなりかねません。

以前、ウクライナ大使館への千羽鶴問題が燃えましたが、「祈る気持ちは尊いが、相手に何かを贈る時には、“自分の想いよりも相手の想いを優先して、何が求められているのか、よくよく想像する必要がある”、というコメントにとても納得し、自分のこれまでのお節介について、また、人へ何かを贈ることについて、今一度深く考える機会となりました。

物質主義、資本主義の膨張で、傾聴の意義と価値がこれまで以上に高まっていると感じます。

情報伝達技術が進み、生活スピードが速まり、何をするにも早く早く!となりがちで。忙し過ぎて、何が大切なのか忘れがちだなと。

自分を犠牲にしないこと、を大前提に、傾聴力を磨いていきたいと思っています。
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