「日韓中三国比較文化論②」

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1、「大人」中国の度量と面子~「華僑ネットワーク」の持つ可能性②

「日本人の資質を日本列島という日本的風土で説明することも不可能なことではない。台風の定期的に来襲する地域に育った住民とそうでない地域に育った住民の気質の違いが、まず目につく。春夏秋冬の季節のはっきりした温暖な地域に育った人たちと、熱帯や寒帯に育った人たちの生活態度が異なることは当たり前のことである。また周囲を海に囲まれて島に育った人と、陸続きで絶えず戦乱にまき込まれた国に育った人とでは、外敵から受ける影響や外敵から自分たちを守る知恵に格段の差があることも充分に肯けることであろう。
 そういった意味では、イギリス人のおかれた位置と日本人のおかれた位置はよく似ているが、両者の国民性がよく似ているとはとてもいえない。同じように、ヨーロッパ人と中国人が似ているともいえない。やはりそれぞれの土地にそれぞれの風土的な特徴があり、また異なる社会環境と歴史がある。日本人は海に囲まれた島国に育っていることは間違いないけれども、文化的にはずっと中国からの一方的な輸入国であった。形の上では士農工商という区別も一通りできているが、細かいところを観察すると、中国の士は同じ士でも士大夫の士であり、隋唐の昔から官僚制度が発達し、今日でもその伝統が色濃く残っている。日本の士は武士の士であって、武力を持って天下国家を手に入れた連中がつい明治維新になる直前まで日本の国を統治してきた。権力は世襲によって受け継がれ、中国のように考試(試験)によって入れかえを強要されてはいない。
 どちらにも支配階級はあったが、世襲制の武士と、考試制の官僚では中身が大きく違う。大ざっぱな言い方だが、両者の間にはお役人と武士の違いがあり、それが西力東漸のプロセスで崩壊して一方は中華民国、続いて中華人民共和国になり、もう一方では今日のような日本の国ができあがった。そのプロセスで、両者の間できわ立った違いが生じたとすれば、それは中国人が士農工商の商の分野で次第に頭角を現わすようになったのに対して、日本人は工の分野でその才能を発揮するようになったことであろう。中国人を商人的性格の持ち主ととらえれば、わかりやすいように、日本人を職人気質の持ち主ととらえれば、日本の社会の成り立ち方や日本の経済の発展ぶりが容易に理解できる。
 一口でいえば、日本人は職人的気質の国民であり、中国人は商人的性格の国民である。職人は自分の仕事とか、仕事の出来栄えに対しては一家言を持っているが、それ以外のことについてはほとんど意見を吐かない。国際会議に出ている日本人の演説をきいて、日本人には主体性がないとか、自己主張がないという批判をよくきくが、職人に自己主張を期待するのはないものねだりであろう。職人は政治や外交についてはもともと関心がないし、意見もない。その代わり自分の守備範囲内の物のつくり方やできあがった製品の完成度に関しては、仕事熱心なだけに一家言も二家言も持っている。
 職人だから出しゃばらない。何事も親方の意見を尊重する。国際舞台においても、同じことがいえる。その代わり仕事の上ではよく勉強する。研究熱心でもある。同業者のやっていることにはふだんから気をつけているし、人のやっていることでもこれはいいと思えば、すぐにも取り入れる。自分が工夫したことでも惜しまずに人に教えるし、会社の金儲けのために応用する。だから、料理人でも、大工でも、機械工でも、コンピュータ技術者でも、世間を驚かすような大発明は滅多にやらないけれども、小さな改良や手直しを怠らないので、消費者が喜んでくれるような商品が次々とできてくる。
 小さな改良だからといってバカにしてはいけない。学問的にすぐれた画期的な大発明と、たゆまざる努力の集積である商品づくりと、どちらがお金になるかといえば、それは商品づくりである。日本が世界の金持ち国にのしあがった理由もそこにある。では職人の国と商人の国とどちらが有利であるかというと、こればかりは一長一短あって何ともいえない。
 日本人と競争して勝とうと思えば、どこの国でも、日本人よりもっとすぐれた職人を大量に訓練する以外に方法がない。そんなことはアメリカ人にも到底できない。中国人にもむずかしいだろう。その代わり、中国人には商才があるから、すぐれた職人のつくった商人を右から左に売ることによって利潤をあげることができる。また自分らで一級品をつくることはできないかもしれないが、それに似たような商品をうんと安いコストで、大量に生産することならできる。商才さえあれば、人はメシのタネに困らないものである。
 もちろん、職人もメシのタネには困らない。「宵越しの金は持たない」江戸っ子は、簡単にいえば職人のことである。どうして江戸っ子が宵越しの金を持たないですんだかというと、夜が明けると必ず仕事があって日銭(ひぜに)に困ることがなかったからである。明治以降、日本には会社ができて、会社が藩の役割を果たすようになった。戦後になると、社会全体が会社の連合体みたいな組織に昇華した。会社の中における社員の一人一人は職人気質だが、心情的にはサムライの集団である。根が職人だから親方のいうことをよくきく。しかし、心情的にはサムライだから、利益の追求をしながら、*1ゲゼルシャフトというより、*2ゲマインシャフトの体質を持っている。こういう集団が物づくりに励めば、その右に出る者はいないのは当たり前だろう。滅私奉公、生命を賭けて良い商品をつくり、利益の追求をするのだから。」
(邱永漢『中国人と日本人』)
*1ゲゼルシャフト…教育機能に特化した学校組織や生産機能に特化した企業組織など、共通の目的や利益を求めるために人為的に創られた集団。機能集団、利益社会。
*2ゲマインシャフト…家族集団、仲間集団、地域集団などの地縁や血縁に基づいて自然に成立している集団。共同体組織、共同社会。

「セールスらしいセールスをやったことのないヨーロッパやアメリカのメーカーがいくら日本人を批判してもあまりピンとこない。日本が閉鎖社会というのなら、まず日本国内でセールスをやってみてから言ったらどうだろうかと反論の一つもしたくなる。その点、日本人は基本的に職人だから、自分らのつくった物を自分らで売りに行く。商社や貿易商に代理をたのむことはあるが、その場合でも、自分らが必要としている原料や素材を仕入れてもらうか、つくりあげた製品を売ってもらうか、のどちらかである。日本人があまり商売人でない証拠に、商社でさえも、外国の商品を別の外国に売る商売にはほとんど携わっていない。
 もちろん、日本人が自分らのつくった商品を売り込むことについて仕事熱心なことはまぎれもない。海外に駐在する日本人が夜討ち朝駆けをいとわず、働きまくるのも定評のあるところである。その結果、自分らの領域がみるみるおかされるようになると、さすがのアメリカ人も肩をすぼめて競争を断念するようになり、「エコノミック・アニマル」という呼称を日本人に進呈するようになった。日本人が商売熱心なことは誰しも認めるところだが、はたして日本人がエコノミック・アニマルの名に値するかということになると、私には少しばかり異存がある。もしアニマルを単独行動する動物と群棲する動物に分類するとすれば、日本人は、グループ・アニマルと呼んでもおかしくない。グループで協力をして素晴らしい商品をつくり出す。それを世に送り出すことを経済的合理主義というのなら、日本人は経済的合理主義の追求者であることは間違いない。
 しかし、日本人はソロバン高くて打算的かときかれたら、答えはノーであろう。すぐお隣の中国人と比べても、日本人はずっと計算にうといし、利害打算で行動することも少ない。たとえば、日本には人材のスカウト業がない。そういう試みが全くないわけではないが、引き抜きをやっても応じない人が多い。一億円を目の前に並べられても、「お志は有難いのですが、いまの会社に恩義もありますし、居心地も結構よろしいですから」と断った例を私は知っている。自分らのつくった物を売ることには日本人は熱心だが、自分自身を売り込むことにはそれほど熱心ではないのである。それに比べると、中国人はお金に敏感で、その行動の動機はほとんど九〇%までがお金であると思ってもそんなに間違っていない。
 中国人社会では社会全体がソロバンずくでできているから、引き抜くほうも当り前と思っているし、引き抜きに応ずるほうも臆面もない。それをやられたくないと思えば、ふだんからそうした場面も想定して、重要な幹部は株主の一員に加えるとか、何らかの利益でしばりつけておかなければならない。何とも味気ない話と思うかもしれないが、世の中がそういう具合にできている以上、それなりの対策が必要になる。とてもたいへんなことのようであっても、お金で大半のことが片づいてしまうのだからかえって御しやすい面もあるのである。
 かつてアダム・スミスは、人間はお金を動機にして行動するものだという想定のもとに、ホモ・エコノミクスというコンセプトをつくりあげた。このコンセプトをもとにして今日の経済学ができあがったと言ってもよい。私は中国人の行動を見ていて、もしかしたら、アダム・スミスは中国人をモデルにしてホモ・エコノミクスというコンセプトを得たのではないかと思っている。もし日本人がエコノミック・アニマルだとしたら、さしずめ中国人はホモ・エコノミクス以外の何者でもないだろう。それほど中国人は経済人間であり、お金を行動の基準にして生きているようなところがある。」
(邱永漢『中国人と日本人』)
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