「日韓中三国比較文化論⑤」

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2、「義人」韓国の深情と適当さ~「教育大国」の底力と進取の気性③

「日本人に顕著な受け身姿勢は、言葉の用法だけではなく、発想そのものについても言うことができる。
 たとえば、謙遜(けんそん)の姿勢を示そうとする場合、しばしば出てくるのが「お蔭(かげ)さま」という発想。
 誰がみても、その人個人の力で目的を達成したと思えるのに、その人自身は「みなさんのお蔭でなし遂(と)げることができました」とか「まわりの力のお蔭です」という受け身の位置に立とうとする。もちろん、そのように謙遜した言い方はどこの国にもある。ただ、日本人の場合は、外国人からみれば「ちょっと言いすぎ」と思えるほど多用されるのだ。
 久し振りに会った日本人ビジネスマンに私が聞く。
「お仕事のほうはどうですか?」
「いや、お蔭さまで……」
 この場合の「お蔭」は私の力なのか、会社の周囲の力なのか、景気のせいなのか、それとも神さまなのか、いつもはっきりしていない。そこに、「お蔭」という言葉の独特な働きがある。
 韓国語には「お蔭」という言葉はないが、「徳鐸(とくたく)で(徳鐸を得て)」というのがある。
 徳鐸とは恵や恩沢(おんたく)の意味だが、それは具体的な他者から得られるもので、日本語の「お蔭」のように、目に見えない得体の知れない力までは含んでいない。それに、日本人のように、まるで自己を否定するような言い方はなく、逆に自力を強調することのほうが多い。
 韓国でも「熟した稲は頭を下げる」(穂を垂(た)れる)と言うし、謙遜の美徳を強調する。
 しかし、日本人のように何か全面的に自分を否定したような言い方をされると、こちらのほうが心苦しくなってしまう。
 韓国人ならば、自分の力を誇(ほこ)ってくれたほうが安心できるものである。
 韓国人は「日本人のように謙遜しすぎるのは傲慢(ごうまん)だ」とよく言う。韓国人ならば、誰々の力添えがあって、それに自分の努力や能力がプラスされて成功した、というようにバランスを取るものだ。しかし、日本人の言い方では、ほとんど一方的に「お蔭」が強調される言い方となる。それが韓国人の目には、かえって傲慢と映(うつ)るのである。
 あるとき、知り合いの日本人ビジネスマンに、こんなふうに聞いてみたことがある。
「Aさんは自分の能力をアピールすることをまったくしませんね。だから、BさんやCさんなどは、あなたがすごい実力の持ち主だなんて、まったく気がついていませんよ。そういうことって、悔(くや)しいとは思いませんか?」
 Aさんは、さまざまな事業プロジェクトを立案して、数々の成功を収めている優秀な企画マンで、多方面にわたって百科事典なみの知識のある人だ。長いつき合いなのだが、Aさんは私の前でも他人の前でも、いつも必要以上のことを話さず、自分の業績を話すにしても、実に客観的なのである。
 私は「あれでは、Aさんの能力がどれだけのものかを、まわりの人たちに知ってもらえないだろう、そういう意味では損しているのではないか」と、いつも思っていた。
 Aさんは、私の質問にキョトンとした顔をしてから、こんなふうに答えた。
「そう言っていただけると嬉(うれ)しいですけどね。日本の社会はネットワーク社会だから、能力のある人間なのかどうかは、まわりが決めることなんですよ。ほんとうに力があるんなら、それは、わかる人にはわかってるわけですから……」
 自分の力があるのかどうかは、まわりが決めること。
 それならば、力を認めたまわりの者が褒(ほ)めてあげればいいかと言えば、これも限度を考えて褒めなくてはならない。ひとつには、本人が恐縮するからだが、褒めすぎると失礼になるからでもある。
 この、どこまでが相手を恐縮させ、どこからが失礼にあたるかの判断がむずかしい。
 ある女性と初めて会った席で、飛び抜けて綺麗(きれい)な人だったので、私は「とても美しい方ですね」と声をかけた。彼女はニッコリと笑って、ひとこと「ありがとうございます」と軽く頭を下げる。私としては、これではまだ足りない気分で、あなたのような人ならどうとかこうとか、いろいろ言うと、彼女はパッと話題を切り換えてしまう。その後、何を言ったいいか迷ってしまったことがある。
 これに似た経験は、ほかにもたくさんある。
 日本人は、褒められすぎることによって、”相手との差”ができてしまうことが嫌なのだ。また、自分だけが褒められるとなると、周囲から自分浮いてしまい、仲間の輪から外(はず)れることにもなりかねない。
 謙虚な態度は美しいが、自分の力を誇示する態度は醜(みにく)いものだ……。そんな美意識はどんな民族にもある。でも、日本人の場合には、それをいちいち謙虚と言っていては、きりがないほどだ。
 日本では、それをとくによい態度というよりは、むしろ普通の態度なのである。
(呉善花『ワサビの日本人と唐辛子(とうがらし)の韓国人』)」

「そもそも、「お蔭」という言葉はどこからきているのだろうか?
 目に見えない蔭の力、背景の力なのだろうと思うが、それに尊敬の「お」がついている。さらには「お蔭さま」と「さま」までつくことも多い。とすると、「お蔭」とは何か超越的な聖なる力なのかもしれない。
 元来、「お蔭」といえば「神さまのお蔭」だったようで、そもそも「蔭」という言葉自体に、目に見えない力、父祖などの霊の力などの意味があるという。
 目に見えないということからすれば、「お蔭」は「縁」とも似ている。
 仕事仲間やグループなど、長期の人間関係を必要とする場所では、その結びつきについて、しばしば「何かの縁があった」ということが言われる。それは、会社の上司と部下の間柄でもよく使われているように思う。
 ある日本企業の部長と若手社員と私の三人で食事をする機会があった。用件が終わると、ずいぶんとくつろいだ場となって、あれやこれやの雑談となった。
 そんな中、部長が部下の若手社員を指しながら、こんなふうに言う。
「彼はどうしようもないヤツなんですよ、前の晩飲みすぎて翌日会社をサボることなんかもよくあるんですね。でも、仕事はよくやるし、憎めないヤツでね、彼とはなんか不思議な縁があるんですなあ」
 不思議な縁といっても、とくに何かがあるわけではない。「不思議な縁があってしかるべきだ」ということなのである。
 たまたま同じ会社になったにすぎず、身近なところにいるから仲よくなる可能性が高いのは言うまでもないこと。それなのに、「縁」という言葉と結びつけようとしている。なぜそこまで結びつけようとするのだろうか。
 韓国でも「服の裾が擦(す)れあっても因縁がある」(日本では「袖振りあうも多生の縁」)という話をよくするし、「縁」は大事なものだと言う。
 でも、「縁」と言えばだいたいは男女関係や友人関係などの、個人的な人間関係の場合に多く使う。韓国では、仕事上の関係ではそれほど耳にするものではない。
 日本人は仕事を中心とした人間関係を、あたかも宿命的な出会いによるものかのようにイメージしていると思える。そこに「縁」が感じられてくるのだろうか。
 日本的な終身雇用制のシステムの影響が大きいとは思うが、それよりも、自分が置かれている環境を、できるだけ自然なものとして肯定的に受け入れようとする気持ちのほうが強いと思う。
 「縁」の発想もまた「お蔭」の発想と同じように、運命のように“抵抗しがたい力”に対する受け身志向を示すものだ。ほとんど、目に見えない力に対する信仰、「お蔭」信仰、「縁」信仰と言ってよいものだと思う。
 この“抵抗しがたい力”とはいったい何なんだろうか。
 私はそれを「自然力」だと思っている。この「自然力」に対する日本人の姿勢をよく表わしたものとして、私には次の言葉がとても印象的である。
  「西洋の文明は積極的、進取的かもしれないが、つまり不満足で一生をくらす人の作った文明さ。日本の文明は自分以外の状態を変化させて満足を求めるのじゃない。西洋と大いに違うところは、根本的に周囲の境遇は動かすべからざるものと云う一大仮定の下に発達しているのだ……山があって隣国へ行かれなければ、山を崩すといふ考を起こす代りに、隣国へ行かんでも困らないと云う工夫をする。山を越さなくとも満足だといふ心持ちを養成するのだ」(夏目漱石(なつめそうせき)『吾輩は猫である』)
 ここには、「自然力」に対する徹底した“受け身”の姿勢をみることができる。
 もちろん、「自然力」とは、単に天然自然の力のことだけではない。
 「お蔭」や「縁」のように、何か抗しがたい力や法則のようなものであり、すべてを決定する大きな流れのような力である。
(呉善花『ワサビの日本人と唐辛子(とうがらし)の韓国人』)」
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