「日韓中三国比較文化論⑥」

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3、「才人」日本の理知と集団性~宗教紛争・民族紛争を免れた稀有のポジション➀

「日本文化」~「酸味」、梅干、「融合調和」(スイカに塩をかける)、畳。自身を適当に抑制しつつ、相手に同調し、協力する融合的気質。絶対的イデオロギーは存在せず、相対的思考が発達した、柔軟性に富んだ社会。木の文化。奇数文化。島国文化。「恥」の文化。「学ぶ」文化。宗教紛争・民族紛争を歴史的に免れているため、「外交大国」になる可能性。

「アメリカの広い家に暮らして、イギリスのロールスロイスを乗り回し、中国人の料理師を雇い、日本の女を妻にする。」
(理想的な人生に関する格言)

「イギリス人が詩を作り、フランス人が作曲して、ドイツ人が演奏して、イタリア人が歌を歌う。そしてアメリカ人が金を出して聴くのだが、日本人は拍手ばかりして何度も『アンコール』を催促するだけ。」
(日本人の模倣文化と創造性の欠如を皮肉ったジョーク)

「日本に初めてやってきた訪問客や来日して間もない韓国人・中国人留学生に日本と日本人の印象を尋ねると、十人中九人は『清潔だ』と答える。・・・韓国と中国には、『あまりにも洗って磨きすぎると福が逃げる』という諺があるが、福が逃げるとその穴から病が侵入してくるという言葉もある。・・・何事にも精密さにこだわり徹底的に消毒しなくては気がすまない日本人の性格が生んだものは、まさに周辺に雑菌ひとつ存在することを許さないような強迫観念だといえる。
 中国は国土が広く、気候が多様で強風が吹き荒れるので、環境と清潔さには無感覚だ。『適当に』を好む中国人の考え方は、このような自然状態から生まれたものといえる。清潔さにおいても、ただ『適当に』すればいいという習慣が支配しているために、とりたてて衛生に神経を使うほどの余裕がないのだろう。」
(金文学『日本人・中国人・韓国人―新東洋三国比較文化論』)

「数千を数える世界の言語の中で、日本語の特徴は?他言語の世界から見たら、驚異以外の何物でもない、それが日本語における文字のありようです。人文学の世界では、<書かれたもの>や<書くこと>を<エクリチュール>ということばで表すことがあります。フランス語からとり入れた外来語ですが、文字によって書かれるさまざまな営みを考えるのに、なかなか便利に使われています。
 日本語の世界は、まさにエクリチュールの驚異と言ってよい。文字を用いるありようが、実に多彩、まさに絢爛豪華なゴシック建築とも言えそうな、巨大なエクリチュールの空間となっています。
 仮名、漢字。万葉仮名に変体仮名。アラビアではインド数字と言っている、アラビア数字の1、2、3。ローマ数字のⅠ、Ⅱ、Ⅲ。もひとつおまけに漢数字。ラテン文字、別名ローマ字abc、大文字小文字入り乱れ、忘れてならないギリシャ文字、α(アルファ)、β(ベータ)、γ(ガンマ)、δ(デルタ)の大文字は、聞かれて難しΩ(オメガ)かな。振り仮名、読み仮名、送り仮名。音読み、訓読み、音訓を、並べて読めば、重箱読み、訓音並べて湯桶読み。修行、言行、行脚行く。呉音、漢音、唐宋音。縦書き、横書き、散らし書き。明朝、ゴシック、勘亭流。王羲之、仮名書に、ペン習字。
 仮名や漢字やアラビア数字を用いるだけならともかく、漢字の読みも幾通りもあり、さらに<書>という芸術まであります。
 このように日本語の世界は、およそ文字に関しては、絢爛たる文字の群雄割拠大聖堂(カテドラル)とも言うべき様相を呈しています。上代からの様々な文字の仕様と使用が生き生きと保存されています。日本文字列島はまさに文字のガラパゴス列島と言えるでしょう。おお、誤解なきよう。これは「ガラケー」=「ガラパゴス携帯」などのように卑下して言うのではありません。言ってみれば、文字をめぐる世界遺産が活火山のように今も息づいている驚異の象徴です。」
(野間秀樹『日本語とハングル』)

「よく知られているように、日本語がパワフルな外国語に接触するのは英語が初めてではない。かつて遣隋使、遣唐使を日本に送り込んだ日本は、積極的に中国から知識技術を取り入れた。その際に当然の成り行きとして中国語の波を受けたが、平安中期からは国風文化を開花させ、見事に「和魂漢才」(菅原道真)の思想で切り抜けてみせた。その実績を忘れてはいけない。日本語の懐の深さと消化力はすでに証明済みなのである。
 ここで立ち止まって、日本語が中国語からいかに大きな影響を受けたかを想像してみよう。日本の表記システムは漢文との接触がなければありえなかった。漢字、それから漢字を材料として作られた平仮名とカタカナ。表記法のみならず、現代日本語の語彙のほぼ半数は漢語である。その中で著しく多い音読み二字の漢語を日本人は積極的に取り込み、また明治期には西洋文明を受け入れる目的で新たに創作もしたが、その結果、日本語はどうなったか。亡びも弱体化もせずに、逆に豊かになったのである。また、第二次世界大戦後には英語から多くのカタカナ語が入ったが、それでも日本語はびくともしなかった。
 この史実を思い返すとき、私は二つのことを想起する。
 一つは、決してこちらからは攻撃せず、ひたすら護身を旨とする格闘技、つまり合気道のことだ。向かう相手の力を利用して制御し、身を守る。合気道は、「受けて立ち、そして勝つ」という点で横綱相撲に似ている。
 もう一つ想起するのは名著『梅干と日本刀』(一九七四)で樋口清之が紹介している「堀川の知恵」である。関東大震災クラスの地震が起きて、東京湾に津波が押し寄せるという可能性が現在でも決して小さいものではない。ところが、江戸時代と比べて現在の方が危険だと樋口は指摘するのである。
 江戸時代には、津波という巨大なエネルギーを吸収し、拡散させる素晴らしい仕組みがあった。それが江戸市内の至るところに流れていた「堀川」である。堀川が潮の勢いを吸い取っていたのである。先にあげた合気道の発想となんと似ていることだろう。
 押し寄せる高潮のエネルギーは堀川(例えば築地から歌舞伎座あたりを流れていた「三十間堀川」(さんじっけんほりがわ))をクッションとして引き込み、そうして持ち込まれた海水を今度は速やかに海へ送り返した。堀川は海水の退路でもあったのである(「三十間堀川」とは幅が約三〇間〔約五五m〕あったための命名である)。
 こうした堀川は、「日本人の自然に対する順応の知恵の優れた例」(樋口・前掲書)である。しかし、これらはその後どうなったか。東京にもはや三十間堀川は存在しない。第二次大戦後、交通の便や土地の不足のためと称して埋められてしまったからである。一九五二(昭和二七)年には埋立が完了して、水路としての三十間堀川は完全に消滅してしまった。八丁堀なども同じ運命を辿ったが、こちらはかろうじて東京の地名として残っている。地下鉄日比谷線の駅名でもある。
 堀川の代わりに戦後に登場したのが堤防であるが、樋口は、堤防と堀川を比較して、堀川の方がずっとよかったと結論づける。「堀川を埋めてしまったことのツケが、必ず来るような気がしてならない」からだ。いくら堤防を高くしても、それを越えるほどの高潮が来ないという保証はない。一九九五年に想定マグニチュードを超える地震が兵庫県を襲って阪神高速道路神戸神戸線を倒壊させたことはまだ記憶に新しい。
 ありがたいことに日本語は堤防ではなく柔構造の堀川である。」
(金谷武洋『日本語は亡びない』)
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