「日韓中三国比較文化論⑦」

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3、「才人」日本の理知と集団性~宗教紛争・民族紛争を免れた稀有のポジション②

「日本人は、論理よりも感情を楽しみ、論理よりも感情をことのほか愛するのである。少なくとも、社会生活において、日本人はインテリを含めて、西欧やインドの人々がするような、日常生活において、論理のゲームを無限に楽しむという習慣をもっていない。
 論理は、本や講義のなかにあり、研究室にあり、弁護士の仕事のなかにあるのであって、サロンや喫茶室や、食卓や酒席には存在しない。そうしたところでは、論理をだせば理屈っぽい話としてさけられ、理屈っぽい人は遠ざけられる。
 ノーベル賞を受賞された朝永(ともなが)博士がいつかこんなことを書いていらした。
ーー外国の物理学者は、食事をしている時でも、酒を飲んでいる時でも、すぐに物理のディスカッションを始め、紙と鉛筆を出して式を書き、まるで何か憑(つ)かれた人という感じで、こちらはとてもついて行けない、と。
私も外国生活になれない頃は、彼らが食事中にも、団欒(だんらん)のサロンでも、たいへん頭脳を使う話をするので、閉口したことである。また反対に、日本に来た外国のインテリは、日本人がお酒を飲みだすと、手をとどかない遠い所に行ってしまう、と取り残される寂しさを味わうのである。
ある中国人は、日本人のこの姿を見るにつけ、あのように無防備で楽しむことができる日本人は羨ましい、といった。あるアメリカ人は、日本の実業家がアメリカの実業家同様忙しいにもかかわらず、ハート・アタックで亡くなる率がずっと少ないのは、馬鹿話のできる酒席の時間というものをもっている故にちがいないと考えている。
 論理のない世界に遊ぶーーしかもそれがきわめて容易に日常生活の場で行なわれ、それが公的な関係にd交錯するほど、社会全体のリズムのなかに、その重要な(潜在的とはいえ)部分として位置づけられているーーということは外国人にとっては一つの芸当とみえるかもしれない。日本人にとっては、それは序列のきびしい生活における神経の疲れを癒(いや)すという重要な精神衛生に貢献しているにちがいない。しかし、この論理のない世界というものを、そして、それを社会生活のなかで、これほど機能させるということを、そうした慣習を共有しない人たちに説明することは実にむずかしい。
日本人、日本の社会、日本の文化というものが、外国人に理解できにくい性質をもち、国際性がないのは、実は、こうしたところ――論理より感情が優先し、それが重要な社会的機能をもっているということーにその原因があるのではなかろうかと思われる。」
(中根千枝『タテ社会の人間関係』)

「日本文化のきわめて多くの部分は周囲の異文化から学んだ事柄から成り立っている。学習と記憶は人間の基本的な能力であり、国や民族を単位に考えたとき、文化交流が個人における学習に、文化伝統と呼ばれるものが、記憶にそれぞれ相当するといっていい。日本文化は学ぶことの多い歴史を所有している。学習は誇るべき人間の資質であり、他者を内面から理解することは、さらに尊い人間性の発露である。日本人が中国や朝鮮半島から多くを学んだことは、それだけ他国の文化を深く理解したとも言い換えられる。…
 日本の文化交流の歴史は、とくに前近代についていえば、教えることよりも学ぶことの歴史であった。私はそれを輝ける学習の歴史と呼びたい。同時にそれは誇るべき「記憶」の歴史でもある。中国、韓国でははるか昔に滅びてしまった法相宗、華厳宗、密教など古いタイプの仏教が今日でも宗派として活発な活動を行っていることは驚くべき保存の能力といえる。…
 日本は民族移動の波が比較的穏やかで、徐々に付加される形をとったと考えられるが、文化についても同様で、新しい文化が洪水のように入ってきて過去のすべてを押し流してしまうという形をとらずに、過去のものはそれほど形を損なうことなく保全され、そこに新しいものが付け加わって、新たな主流をなしていくという形をとることが普通であった。たとえていうなら、ちょうど堆積が安定的に行われてきれいな縞目をなしている地層を見るような形に、日本文化は形成されてきたのである。」
(上垣内憲一『日本文化交流小史』)

「日本文化は極東文化の“吹溜(ふきだま)り”といわれる。この日本列島が大陸から分離したのは、人類の記憶にも跡を留めない遠い過去のことであるが、それでも一衣帯水で大陸にそうこの列島には、大陸からたえず人と文物とが渡ってきた。そしてここから先は出ていくところのない、極東文化の終着駅。こうして大陸のさまざまな文物はこの島国というルツボに受容され、そして発酵することになる。
 吹溜りの文化は「多元」の世界である。宗教的にも思想的にも、日本人ほど“寛容”な民族はいないかもしれない。これは、人的交流はたえずあっても、異民族による征服と支配といった経験なしに民族を形成した島嶼(とうしょ)国家の特性で、そうした単一民族という土壌からは、あれかこれか、オール・オア・ナッシングという、二者択一の厳しい論理は育たなかったのである。論理よりも感性の文化が発達したゆえんである。
 しかしそれならば文物の受容がまったく無原則であったかといえば、それなりに「選択的」であったのもまた日本人であろう。室町時代唐絵(からえ)趣味の高揚した時期に、「和尚(おしょう)」と親しみをもって呼ばれ愛された牧谿法常(もっけいほうじょう)の絵は、本場の中国ではそれほど高く評価されてはいなかった。時代をそこまで下げるには及ばない。わが古代国家が手本とした中国王朝の諸制度、なかでも根幹をなす*科挙(かきょ)の制はわが律令体制においてはついに根付かなかったし、*宦官(かんがん)の制に至ってはこの島に上陸することもなかった。これらが中国皇帝の独裁を支える権力基盤であったことはいうまでもない。それが受容されなかったところに、日本の古代国家の体質が暗示されている。
 多元的であることの帰結ともいえるが、「習合(しゅうごう)的」であるのも日本文化の特質に数えられよう。六世紀の半ばに仏教が伝わって以来、宗教者の課題はつねに神仏習合の問題におかれていたといえるし、古い時代の和魂漢才が西欧文明と接触すれば和魂洋才に変わる。俗ないい方をすれば、これはまさしく餡(あん)パン文化であり、そこにはきわめて現実主義的な文化受容の風土があったといえる。」
(村井康彦『律令制の虚実』)
*科挙…中国における高級官僚を登用するための試験制度。六世紀の隋の時代に初めて導入され、一九〇四年の清朝末期に廃止されるまで、一三〇〇年以上続いた。
*宦官…去勢された男子で、宮廷や貴族の家に仕えた者。後宮女官の監督や宮中の雑役を行った。中国では周代から存在し、王、皇帝の側近にあって外戚(王、皇帝の母親または妃の一族)と並んで政治に関与した。
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